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 ところでこういうブログに載せるための日記というか雑記というか何というか、ようするに記事が書かれるのには普通どれくらいの時間が費やされるものなのだろうか。なかには毎日こまめに書いているひともいるくらいなので、まあそれほど時間のかかる作業でもないのだろうと推測するのだけど、私はというとひとつ書くのにゆうに半年はかかるのであってさすがにあほであると言わざるを得ない。とはいっても一日に五文字ずつぽちぽちと中指に力をこめてキーを押して仕上げているとか、半年のあいだ昵と文章を睨み続け呻吟し推敲に推敲を重ねているとか、そういったことをしているわけではもちろんなくて、何かとても非常にどうでもいいあほなことを思いついてからそれをタイプし始めるまでのあいだに大いなるタイムラグがあるだけのことであって、なぜそんなことになっているのかはさっぱりわからない。たぶん私の脳みその構造に何か本質的な欠陥があるのだと思う。というか、それが何かとても非常にどうでもいいあほなことであるのなら、そのままタイプなんてしないでほうっておけばいいようなものなのだけど。
 昨日の晩御飯が思い出せない。何だか突然おかしな告白をしてしまったみたいだけれど、ふとこういったことに気づいたときに私は茫然としてしまう。ひ、ひょっとして俺の脳みそはどこか内部奥深くのほうで故障しているのではないか? 大いなる動揺から嫌な感じのねばつく汗が全身から噴きだしてきて眼がかすみ、思わずビルの屋上からまっ逆さまにダイヴしたくなるのだけどまだ試したことは一度もない。
 晩御飯の記憶の欠如に気がつくというのはその些細な例なのだけど自分のあほをひしひしと感じる瞬間というのが私には時たまあって、まあそうやって自分のあほを認識できているうちはあほではないと言えるのかもしれないが、でもあほの認識が行なわれるのが時たまだということはやっぱりかなり重症のあほなのかもしれず、しかしながら認識ができているのだからかろうじてあほはまぬがれているとも考えられ、ってこうやって書いているうちに自分でも何を書いているのかだんだんわからなくなってくるのであほであることは確実であり、でもやっぱり自分のあほを認識しているうちはあほとは言えないのであって、あほの私にはさっぱり訳がわからない。
 話を戻すけれど昨晩の食事すら憶えていないのだからそれ以上に複雑なことや、それ以上に昔のこととなるともう絶望的である。食事の場合は記憶に残らなくても栄養が摂取できればまあそれでいいと言えるのかもしれないけれど、って本当はそんなことは決して言えないのだが、とにかく旅行に行ったり、映画を観たり、本を読んだりといった行動がまったくの無駄になる。いや、きっとそのとき私はそれを楽しんだに違いないのだから別にまったくの無駄ではないのかもしれないけれど、行った憶えのまったくない場所でやたらはしゃぐ自分の写真を突きつけられて慌てたりするのは正直しんどい。たまに漫画を買ってくると既に本棚に同じ巻が二冊あって背筋がぞっとする。観るのが二度目のDVDを借りてきて半分以上を観終わってからそれに気づいてくやしがる。同じ映画を観たはずなのにひとと話がまったく合わない。そういえば数分しか記憶を保つことのできない男か女を描いた映画か漫画があったような気がするのだけど、なかったかもしれないし、やっぱりあったかもしれない。とにかくよく憶えていない。一刻も早くダイヴするべきだ。
 ひとの名前を憶えるのも苦手である。特にわっといっぺんに五人くらいのひとに紹介されるという場合がいちばんまずくて、なぜなら向うはこっちをしっかりと記憶にとどめ、こっちもそれを期待されていることが明らかなのにもかかわらず実際は誰ひとりとして憶えることができないからである。そういうことが積み重なっていった結果、何年も付き合いがあるのに名前がいまいち判然としない知人というのが私にはけっこういる。
 こういった経験のあるひとがどれくらいいるのかわからないけれど、完全に顔見知りで何度も会ったことがあるのは確実なのに名前はおろかどこの誰だかもわからないひとと延延と会話をしなければならないという状況は本当につらい。ところであなたは誰ですか、なんて今さら訊けるはずはないのであって、もはやすべてが徹底的に手遅れである。どこの誰だか全然わからないので会話をしていてとても気を使う。下手なことは喋れないので、無難な話題としては今日は暖かいですねとか寒いですねとか、暖かくも寒くもない日には今日は雨が降らなかったとか、雪も雹も霙も降らなかったとかそういったどうしようもない天気の話しか思いつかない。とうぜん話が盛りあがることなんて絶対にないのだけど、相手のつまらなさそうな、どこかとまどったような顔を見ていると何だか申し訳ないような気になってきて無理やり話を広げ墓穴を掘る小心者の私がいる。そうやって個人的なことに話題が発展してゆきいろいろと固有名詞が話に出てくるようになると心臓が高鳴って毛細血管に負担がかかりずきずき痛みだす。ひょんなことから「佐藤さん」などというありふれた苗字のひとが話題にのぼってもどこの誰だかさっぱりわからない。あいまいな笑顔でごまかす私。そんなこんなで昼飯を食べながらかれこれ30分以上談笑しているのに、じつはこっちが相手の名前すら知らないなんていうことがもしばれたらと想像するとそれだけでテーブルの下の膝ががくがくしてくる。
 これは知りあったひとに限らないのだけど、私が自然に苦なく記憶することができるのはその物事のどうでもいい細かい部分だけである。誰か人物の場合だとその外見的な特徴だったり、些細な癖だったり、ちょっとした不思議な行動だったりする。そのくせ決して名前や肩書きを憶えることはできない。だから私は心のなかで名前のわからない知人たちのことをこっそり渾名で呼んでいて、たとえば前述のいっしょに昼食をとった正体不明な方は「かつて宴席で割り箸を割るのを二回立て続けに失敗した男」として認識しているのだけど、どうか怒らないでほしい。というか、そう呼ばれている本人は当然それを知らないのでここでこんなことを言っても無駄なのだけど、別に馬鹿にするとかそういった意図があるわけでは決してなくて、すべては私の貧弱な記憶力のなせるわざである。ところで心の底からどうでもいいのだけど、割り箸を割るのを二回連続で失敗するのはけっこう難しいと思う。
 今年の春のことである。JR中央線快速電車に乗って吊革にぶら下がり、揺られ、いつものようにあほ面で涎を垂らしながら窓から外を眺めていたら、御茶ノ水駅から乗りこんできた私と同年輩と思しき男が話しかけてきた。どうも大学のときの知り合いであるらしいのだけど、話の内容からして学部の同級生というわけではないようだった。けっきょく私には彼が誰だかわからなくて、適当に話を合わせてあはははは、なんて無責任に笑っているうちに彼は四谷で降りてしまった。というか本当は私も四谷に用事があったのだけど、いっしょに降りるのも何だか気まずかったので新宿まで行って折り返した。で、彼には携帯電話の番号を教えてもらったのだけど、困った。名前がわからないので電話帳に登録できない。こういう場合どうすればいい? とりあえず「不明(大学、お茶の水)」などという酷い名前で自分の携帯電話に登録したのだけど、それからというもの電話帳のハ行の欄を見るたびに、「フメイカッコダイガク、オチャノミズ」というその振り仮名を見るたびに私はほんの少しだけ罪悪感に苛まれる。電話がかかってきたらどうしようと思うと心臓の毛細血管に負担がかかって寿命が縮み電車にダイヴ。
 何だか話がだんだんつまらない方向に発展してしまっているのだけど、あほなので自分の文章を制御することすらもできずこのまま流され続けるよりしようがない。自身の記憶力の欠如を認識しているので大事な予定、約束についてはきちんと律儀にメモすることを欠かさない私だけれど、過去に起こった出来事については記録をとる習慣がないので、どんなに楽しかったことでも、どんなに苦しかったことでもその記憶はすぐさま減衰しおぼろげで曖昧となる。だから私が誰かにとってとても重要な想い出を憶えていなかったとしても、どうか怒らないでほしい。あるいは言い換えると、あなたの知り合いの誰かがあなたにとってとても重要な想い出を憶えていなかったとしても、どうか怒らないでほしい。って、何を言っているのかわからないかもしれないが、私自身も何を言っているのかわからない。わからないまま話を続けると、そういった大事な出来事を忘れがちな種類の人間にとって、もしくは少なくとも私にとって、重要なのは何か物事の全体像ではなく、通常は切り捨てられてしまいがちな細かい部分にあるのだ。なぜならば何かの全体像というのは、どんなに特別な物事のそれだったとしても概して非常に似通ったものであるからだ。私はそれに意味を見いだすことがあまりできないのだろうと思う。意味を見いだせないから、はっきり言ってしまえばどうでもいいと感じているからすぐに忘れてしまう。しかし細部は違う。あるいは無個性な全体像に貼りついたいくつかの細部の組み合せはそうではない。神は細部に宿るという言い方があるけれど、そういった意味で私はこの言葉に賛成する。やっぱり何を言っているのかよくわからない。ダイヴ。
 具体的な事例への言及を抜きにしてこれ以上一般論で話を進めるのは非常に困難なので、突然だけれどここで話を打ち切る。というか、五つ前の段落で映画のあと人間関係に話を展開してからどうも調子がおかしくなったようなので、そこから下をばっさりとカットするのがいいような気に私は今なっている。映画の話のあと本の話にでも繋げれば、穏当に、何事もなかったかのようにこの文章を終えることができそうだ。ということで段落を五つだけ戻って文章をやり直すことにする。青色の星で印をつけた部分だ。どうやってやり直すのか? 下の「続きを読む」というリンクをクリックすると青い星以降の部分の別ヴァージョンがあらわれる。そしてこちら側は特に結論めいた文章のない袋小路の尻切れトンボとしてこのまま終える。おしまい。
 観た映画も憶えていなければ当然のように読んだ本も憶えていない。そのおかげで同じ本を何度も楽しめて非常にお得だという楽天的な見方もできるのかもしれないが、それにしても読んだ本の内容をぜんぜん憶えていないというのはやっぱりちょっとだけ哀しいし、読むのが二度目のミステリのページを繰りながらわくわくしている自分に気づくのはとても虚しい。
 これでもいわゆる世界の名作、古典と呼ばれる小説もいくつか読んでいるので、趣味は読書で愛読しているのはドストエフスキーです、いちばん好きなのは『地下室の手記』です、なんて言うことができれば少しは教養のある人間として見てもらえるのかもしれないのだけれど、肝心の本の内容をまったくといっていいほど憶えていないのでそうすることができない。たとえば『悪霊』なんて、大量に出てくる登場人物のへんてこな名前とその愛称をいちいちメモしながらかなり苦労をして読んだはずなのに、かろうじて記憶にあるのはおいしそうなお茶のシーンと、あとはなぜか朝からカツレツをぱくつくシーンだけである。物語の全体的な内容はまったく憶えていない。正直に言って本当に最後まで読んだのかどうかもいまいち自信がない。どれくらい自信がないかというと、警察の取調室で顔にライトを浴びせられ一晩中ねちねちいびられたあと、ほかほかのかつ丼、味噌汁、漬物を出されて鬼刑事に「かあさんがよなべーをしてえー」と優しいだみ声で歌われたら、素直に「ほんとは読んでません」と涙ながらに白状する自信があるくらい自信がない。だからカツレツのシーンもひょっとすると記憶違いかもしれない。ステーキだったかもしれないし、ボルシチだったかもしれないし、そもそもそんな場面はなかったのかもしれないし、って私はいったい何を書いているのだろう?
 で、昔むかし私が読んだ数少ない文学作品、ないしは名の知れた小説をうんうんと唸って思い出し、説明を付け加えたのが以下のリストである。このリストにどれだけの真実が含まれているのか、あるいはどれだけの捏造が含まれているのかは不明であるけれど、ただひとつ明らかなことは、私にとって本を読むというのはほとんど不毛な作業だったということだ。ダイヴィング。



ドストエフスキー『悪霊』……理由は不明だけれど朝からカツレツと赤ワイン。あと、お茶。
メルヴィル『白鯨』……まだ船からぶら下がっている獲れたての鯨の尾の身をナイフで切り取って作るステーキ。
トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』……水銀の粒を振り払って食べる本物のパン。
ヘミングウェイ『日はまた昇る』……バーでゆで卵(なぜバーでゆで卵なのだろう?)。皆で回し飲みをする皮袋入りのワイン。
ヘミングウェイ『老人と海』……最終的にぜんぶ食べられる。
カポーティ『ティファニーで朝食を』……食べない。
サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』……やたら固いケーキ。
カフカ『変身』……新鮮な喰い物はまずい!
カフカ『城』……寒空のもと馬車のなかでふかふかの毛布に包まれブランディを壜かららっぱ飲み。



 とか何とか無計画に書いているうちにこの日記というか雑記というか、つまりは記事が何だか異常に長くなってしまっているけれど、ようするに本日は私にとってとても暇な日なのである。暇なので、ぱたぱたとこの文章をタイプしながら酒を飲んでいる。いま飲んでいるのはジンのオレンジジュース割りで、これにはオレンジブロッサムという名前があるらしいのだが、私が飲んでいるのはあくまでもジンのオレンジジュース割りにすぎない。適当なジンを適当なオレンジジュースで割って、ぐるぐるかき混ぜるだけという至極安易な飲み物である。
 正直に言って特別うまい酒というわけではない。はっきり言えばまずいほうの部類に入る。ライムかレモンを絞ってジンをそのまま飲むか、あるいは割るならトニックウォーターかジンジャーエールを使ったほうが百倍くらいうまい。じゃあなぜ私がこのジンのオレンジジュース割りを飲むのかというと理由はふたつあって、ひとつはトニックウォーターなんかと違ってオレンジジュースは家の冷蔵庫に鎮座ましましていることが多いからであり、もうひとつは、こちらはとても些細な理由なのだけど私のお気に入りの『長いお別れ』という小説にこの飲み物が出てくるせいである。
 私には同じ本を何度も繰り返し読む癖があって、それは先程書いたように私が物事の全体像を把握する能力にまるきり欠けているせいなのだが、この本も五、六回くらい読んでいると思う。これはいわゆるミステリというかハードボイルドというジャンルに属する小説で、そういった種類の本を何度も読み返すというのはちょっと、というかはっきり言うとかなりあほっぽいのでこういうことを書くのは恥ずかしいのだけど、でも本当なのだからしようがない。
 さて、この本について私は何を憶えているか? 例の有名なギムレットの場面は何故かあまり記憶にない。上と同じような調子で答えると、それが主人公の探偵が依頼人に付きあって飲むジン&オレンジのシーンなのである。小説のなかで依頼人が「ばかな飲み物」と言い、探偵が「うまいとはいえない」と独白するジン&オレンジだけど、それが不思議とおいしそうに感じられて私の記憶に残っている。理由はよくわからない。というわけでジンのオレンジジュース割りをたまに飲むのだけど、これがまた本当にぜんぜんうまくないので困ってしまう。ジンとオレンジジュースの割合をどう変えても、レモンジュースを垂らしたりとどんな工夫をしても決してましな味にはならない。そうやって何度も飲んでおいしくないということは心底わかっているはずなのに、たまに思い出すとジンのオレンジジュース割りを作って飲んで、飲むたびにやっぱりおいしくないなあと思う私がいる。と、今まさにそれを飲みながら書いている私がいる。たぶん私はあほなのだろう。眠くなってきたし、酔っ払いすぎて目の前のモニターが歪んできたのでここでおしまい。おやすみ。ぐーぐー。ぐーぐー。ぐーぐーぐー。
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2006.11.06.Mon 00:00 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
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