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 どうしてだかわからないのだけどジョン・アーヴィングの小説にはよく熊が出てくる。彼の書いたなかでいちばん有名な『ガープの世界』にももちろん出てくるし、彼のいちばん最初の小説はタイトルが『熊を放つ』である。そしてアーヴィング自身も写真を見るとごつい顔をしていて熊に見えないこともない。彼はT・S・ガープと同様にレスリングの選手だ。
 その熊のアーヴィングはどこかの大学でカート・ヴォネガットに小説を習ったが、ヴォネガットは自分自身を、あるいは芸術家をカナリアに喩えた。その心はここでは説明しないけれど、そのカナリアは鳥かごに入れられている。いまヴォネガットの公式ウェブサイトには口の開いた空っぽの鳥かごが飾られている。
 もう痛くない!


 あの空の鳥かごが公式サイトに飾られたのは彼の死が報じられてからわりとすぐのことだった。なぜそんなことを知っているのかというと私がそのとき偶然 Yahoo.com を見ていたせいで比較的早い時間に訃報を目にしたからなのだけど、「ヴォネガット死す」という見出しとともに肩越しに振り返ってこちらを見るちょっと肥り気味のヴォネガットの写真を見たときには、そんなニュースのために Yahoo.com を見ていたわけではなかったのでびっくりした。


 私は同じ本を何度も繰り返し読むのが好きなのだけど、アーヴィングの小説を二回読んだことはまだ一度もない。彼の小説がとてつもなく長いというせいでももちろんあるのだが、もっと大きな理由として、登場人物たちのわりとしんどい一生を見届けたあと、再読することでそれを再び彼らに繰り返させるのが私には苦痛に感じられるというのがあるからなのだと思う。陰茎を噛みとられたり、親兄弟親友恋人を失ったりする経験をするのは一度だけで充分だ。と書いていて、実際に人生を二度経験させられた『タイムクエイク』の登場人物たちはどうだっただろうかとふと考えたのだけど、何だか本の内容をよく思い出せないのでもう一回読んでみようと思う。
 一回読むと二度繰り返される。


 ヴォネガットの小説でいちばん好きなのは何かというと自分でもよくわからないが、数多く読み返した小説の順番ならすぐに答えることができる。いちばんは『猫のゆりかご』であり、ついで『スローターハウス5』。その次が『チャンピオンたちの朝食』。その次が『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』か『母なる夜』。その次が『タイタンの妖女』か『タイムクエイク』か『スラップスティック』。


 村上春樹が『熊を放つ』のあとがきで「自分のなかでアーヴィングはヴォネガットを超えた」といった意味のことを書いていたけれど、私にはまったく同意できなかった。世間で評判の高い『サイダーハウス・ルール』と『ガープの世界』を読んだあとでも、村上春樹ってじつはあほなんじゃないの、としか感じることができなかった。私は彼の意見にまったく賛同できない。
 そしてアーヴィングの小説は素晴らしい。


 アーヴィングの小説はいつも下巻に入ってからとてつもなくおもしろくなる。なんて書くと、おもしろい部分が少ないように聞こえるかもしれないけれども、そうではない。そこに至る過程もあほみたいにおもしろいし、それにアーヴィングの小説はあほみたいに長いので、下巻だけでもたっぷりページは残されている。
 アーヴィングの小説を読んでいるときに私がいつも思うこと ―― この小説が永遠に続けばいいのに!


 一方、ヴォネガットの小説はいつも最初がおもしろい。あのプロローグのおもしろさはほとんど詐欺だと思う。


 アーヴィングの小説とヴォネガットのそれはとてもよく似ている。アーヴィングがヴォネガットの影響を受けたせいで小説が似たのか、それとももともとふたりの資質が似通っていたからこそアーヴィングがヴォネガットを師事するに至ったのか、そのあたりの事情は私は知らない。
 

 で、いまふと思ったこと ―― アーヴィングの小説からヴォネガット的要素を抜いたなら、ひょっとしてとてつもなくむごたらしい物語ができあがるのでは?
 そういった意味で、アーヴィングのなかのヴォネガット的要素はけっこう大切なのだと思う。
 

 ところで、さっき『国のない男』を読み終わってしまったので、『If God Were Alive Today』が出版されないかぎり私はもう新しいヴォネガットを読むことができない。
 ソーイットゴーズ。

 アーヴィングについては、次は『ウォーターメソッドマン』を読もうと思っている。じつはもう買ってあって、だいぶ前から本棚の上に積んであるのだけど、なぜだか読むのをあと回しにしてしまっている。読むのが楽しみな本が本棚にたくさん積んであると私はほっとする。『ウォーターメソッドマン』を読む日が来るのがとても楽しみだ。『オウエンのために祈りを』を読む日が来るのがとても楽しみだ。『未亡人の一年』を読む日が来るのがとても楽しみだ。
 アンドソーオン。

 ハイホー。

 ちんがりーん。

 プーティーウィッ?

 酔っ払いすぎてこれ以上書けないのでこのへんでおしまい。おやすみ。よいお年を。





おまけ

私が大好きなヴォネガットの冗談:
  問 小鳥のウンチのなかの白いものはなんですか?
  答 それも小鳥のウンチです。


私が知っているヴォネガットの大好きな冗談:
  カートはいま天国におります。


 ちんがりーん?
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2007.08.01.Wed 00:00 | 未分類 | trackback(0) | comment(8)
 以下は、どこにでもあるありふれた日記です。ようするに今日あった出来事を何の外連もなくのんべんだらりと綴ろうというわけですが、先週のことなのだけど久しぶりに映画を観てきました。って、今日のことを書くと言っていたのにいきなり先週の話になっていますが、あまり気にしないでください。だって今日は特筆するべきことなんて何もないごく平凡な一日だったのですから。というか、書くべきことが何ひとつない暇な一日だからこそ私は今キーボードに向かっているのであって、そういった理由から私がその日にあった出来事をその日のうちに記録するのは事実上不可能なのです。観てきたのは『パプリカ』です。アニメーションです。2006年11月25日公開。原作、筒井康隆。監督、今敏。なんてウェブをちらちら盗み見ながら書いていますけれど、アニメの映画なんて『ドラえもん』とか『千と千尋の神隠し』とかしか観たことがないのでイマビンなんてひとは知りませんでした。ってまあひょっとするとコンビンと読むのかもしれませんけど。それともイマトシ? コンマイボク? と、読み方を捏造しながらこの監督の名前を昵と睨んでいたら、何だか「今」という漢字がおかしな顔文字のように見えてきました。上の屋根の部分が髭で、その下の横棒が口、さらに下が顎と頸です。わかりますか? って訳のわからないことを書いていますが、ついでにもうひとつ書くと昔から私には「尚」という漢字がおかしな顔にしか見えなくて、何か文章を読んでいてこの漢字が出てくるとそのたびに痙攣的な笑いが心の奥底からこみ上げてくるので困っています。ちなみに吊り眼でたらこくちびるの顔です。機嫌の悪いキン肉マンみたいな顔です。この漢字のどの部分がどう見えるかについては、あまりにもくだらないので説明は省きますけれど、高尚。わはははは。時期尚早。わはははははははははは。姜尚中。わはははははははははははははははははははははは。で、話を戻すとものすごく昔に読んだ小説『パプリカ』が異常に面白かったことと、その日は目を醒ました瞬間から今日は断固として映画を観るべきであるという精神状態だったことと、でも観たい映画も別にないよなあ、とそういった条件が重なりあってこの映画を選んだわけなのですけれど、結果として大当りでした。ようするに面白かったです。もうちょっと詳しい感想としては、観てよかったなあと思いました。って何だか頭の悪い小学生の作文みたいになっていますけれど、小学生のときから私は映画を観ても本を読んでも絶叫マシーンに乗っても、その他人生に何が起こっても「面白い」か「つまらない」以外のことを感じることができないので、これが精一杯の感想文です。と、書きながらちょっと思ったのですが、何で俺はこんなあほっぽい文体で支離滅裂なことを書いているんだろう? まあいいや。新宿まで電車でてくてく行って観てきました。ところでどうでもいいのだけれど、というか言ってみればこの文章全体がどうでもいいのですが、というかこのブログ自体がどうでもいいのですが、というか私の人生のすべてがどうでもいいのかもしれませんが、しくしく、ぐすぐす、新宿駅といえば馬鹿みたいにでかくて複雑で、そのいりくんだ地下迷宮から脱出しようと奮闘したあげく、挫折し、発想の転換からそこに住みつく人びとが続出だとよく聞きますけれど、ってよくは聞きませんが、まったく聞きませんが、すみません、私にとっては大阪は梅田の地下街のほうが遥かに難敵でした。以前関西に住んでいたときに何度も命がけの探索を敢行したのにもかかわらず、けっきょく最後までその全貌を窺い知ることはできませんでした。どれくらい難敵だったかというと、JR大阪駅から隣の阪急梅田駅に行くためにはまずJR新快速に乗っていったん京都駅まで行き、次に京都市バスのアグレッシヴな運転で四条河原町まで渋滞の道を揺られ、そこから阪急の特急に乗って梅田まで戻ったほうが早いんじゃないかというくらい難敵でした。というか、四条河原町に行きたかったので戻る必要なんてないのだったけれど。話が逸れてしまいましたが、とにかく新宿まで行って観てきました。指定席の映画館じゃなかったのでちょっと早めに行ったのだけれど、予想外に混んでいて、最終的にはほとんど全部の席が埋まったので早めに行って正解でした。感想は上に書いたとおりです。DCミニで発狂したひとの台詞が特に面白かったです。何を喋っているのかぜんぜんわからなかったけれど。あと、原作の小説を少なくとも二度は読んでいるのに一切ストーリーを憶えていなかった私の脳みそもすばらしいと思いました。おかげで楽しめました。ありがとう。何十年後かに痴呆症になったらもっと人生が楽しめるのかと思うと今からわくわくします。毎日のすべてが初体験。あとそれから、私の隣に坐っていた女の子が映画を観ながらちょっとしたくすぐりのシーンが来るたびにうふうふ楽しそうに笑っていて、特に私が思わずふきだしたところでは抜かりなく笑っていたのでよかったなあと思いました。って何がよかったのかいまいち不明ですけれど、とにかくよかったです。よかったね。おしまい。おやすみ。よいお年を。
2006.12.18.Mon 00:00 | 未分類 | trackback(0) | comment(6)
 ところでこういうブログに載せるための日記というか雑記というか何というか、ようするに記事が書かれるのには普通どれくらいの時間が費やされるものなのだろうか。なかには毎日こまめに書いているひともいるくらいなので、まあそれほど時間のかかる作業でもないのだろうと推測するのだけど、私はというとひとつ書くのにゆうに半年はかかるのであってさすがにあほであると言わざるを得ない。とはいっても一日に五文字ずつぽちぽちと中指に力をこめてキーを押して仕上げているとか、半年のあいだ昵と文章を睨み続け呻吟し推敲に推敲を重ねているとか、そういったことをしているわけではもちろんなくて、何かとても非常にどうでもいいあほなことを思いついてからそれをタイプし始めるまでのあいだに大いなるタイムラグがあるだけのことであって、なぜそんなことになっているのかはさっぱりわからない。たぶん私の脳みその構造に何か本質的な欠陥があるのだと思う。というか、それが何かとても非常にどうでもいいあほなことであるのなら、そのままタイプなんてしないでほうっておけばいいようなものなのだけど。
 昨日の晩御飯が思い出せない。何だか突然おかしな告白をしてしまったみたいだけれど、ふとこういったことに気づいたときに私は茫然としてしまう。ひ、ひょっとして俺の脳みそはどこか内部奥深くのほうで故障しているのではないか? 大いなる動揺から嫌な感じのねばつく汗が全身から噴きだしてきて眼がかすみ、思わずビルの屋上からまっ逆さまにダイヴしたくなるのだけどまだ試したことは一度もない。
 晩御飯の記憶の欠如に気がつくというのはその些細な例なのだけど自分のあほをひしひしと感じる瞬間というのが私には時たまあって、まあそうやって自分のあほを認識できているうちはあほではないと言えるのかもしれないが、でもあほの認識が行なわれるのが時たまだということはやっぱりかなり重症のあほなのかもしれず、しかしながら認識ができているのだからかろうじてあほはまぬがれているとも考えられ、ってこうやって書いているうちに自分でも何を書いているのかだんだんわからなくなってくるのであほであることは確実であり、でもやっぱり自分のあほを認識しているうちはあほとは言えないのであって、あほの私にはさっぱり訳がわからない。
 話を戻すけれど昨晩の食事すら憶えていないのだからそれ以上に複雑なことや、それ以上に昔のこととなるともう絶望的である。食事の場合は記憶に残らなくても栄養が摂取できればまあそれでいいと言えるのかもしれないけれど、って本当はそんなことは決して言えないのだが、とにかく旅行に行ったり、映画を観たり、本を読んだりといった行動がまったくの無駄になる。いや、きっとそのとき私はそれを楽しんだに違いないのだから別にまったくの無駄ではないのかもしれないけれど、行った憶えのまったくない場所でやたらはしゃぐ自分の写真を突きつけられて慌てたりするのは正直しんどい。たまに漫画を買ってくると既に本棚に同じ巻が二冊あって背筋がぞっとする。観るのが二度目のDVDを借りてきて半分以上を観終わってからそれに気づいてくやしがる。同じ映画を観たはずなのにひとと話がまったく合わない。そういえば数分しか記憶を保つことのできない男か女を描いた映画か漫画があったような気がするのだけど、なかったかもしれないし、やっぱりあったかもしれない。とにかくよく憶えていない。一刻も早くダイヴするべきだ。
 ひとの名前を憶えるのも苦手である。特にわっといっぺんに五人くらいのひとに紹介されるという場合がいちばんまずくて、なぜなら向うはこっちをしっかりと記憶にとどめ、こっちもそれを期待されていることが明らかなのにもかかわらず実際は誰ひとりとして憶えることができないからである。そういうことが積み重なっていった結果、何年も付き合いがあるのに名前がいまいち判然としない知人というのが私にはけっこういる。
 こういった経験のあるひとがどれくらいいるのかわからないけれど、完全に顔見知りで何度も会ったことがあるのは確実なのに名前はおろかどこの誰だかもわからないひとと延延と会話をしなければならないという状況は本当につらい。ところであなたは誰ですか、なんて今さら訊けるはずはないのであって、もはやすべてが徹底的に手遅れである。どこの誰だか全然わからないので会話をしていてとても気を使う。下手なことは喋れないので、無難な話題としては今日は暖かいですねとか寒いですねとか、暖かくも寒くもない日には今日は雨が降らなかったとか、雪も雹も霙も降らなかったとかそういったどうしようもない天気の話しか思いつかない。とうぜん話が盛りあがることなんて絶対にないのだけど、相手のつまらなさそうな、どこかとまどったような顔を見ていると何だか申し訳ないような気になってきて無理やり話を広げ墓穴を掘る小心者の私がいる。そうやって個人的なことに話題が発展してゆきいろいろと固有名詞が話に出てくるようになると心臓が高鳴って毛細血管に負担がかかりずきずき痛みだす。ひょんなことから「佐藤さん」などというありふれた苗字のひとが話題にのぼってもどこの誰だかさっぱりわからない。あいまいな笑顔でごまかす私。そんなこんなで昼飯を食べながらかれこれ30分以上談笑しているのに、じつはこっちが相手の名前すら知らないなんていうことがもしばれたらと想像するとそれだけでテーブルの下の膝ががくがくしてくる。
 これは知りあったひとに限らないのだけど、私が自然に苦なく記憶することができるのはその物事のどうでもいい細かい部分だけである。誰か人物の場合だとその外見的な特徴だったり、些細な癖だったり、ちょっとした不思議な行動だったりする。そのくせ決して名前や肩書きを憶えることはできない。だから私は心のなかで名前のわからない知人たちのことをこっそり渾名で呼んでいて、たとえば前述のいっしょに昼食をとった正体不明な方は「かつて宴席で割り箸を割るのを二回立て続けに失敗した男」として認識しているのだけど、どうか怒らないでほしい。というか、そう呼ばれている本人は当然それを知らないのでここでこんなことを言っても無駄なのだけど、別に馬鹿にするとかそういった意図があるわけでは決してなくて、すべては私の貧弱な記憶力のなせるわざである。ところで心の底からどうでもいいのだけど、割り箸を割るのを二回連続で失敗するのはけっこう難しいと思う。
 今年の春のことである。JR中央線快速電車に乗って吊革にぶら下がり、揺られ、いつものようにあほ面で涎を垂らしながら窓から外を眺めていたら、御茶ノ水駅から乗りこんできた私と同年輩と思しき男が話しかけてきた。どうも大学のときの知り合いであるらしいのだけど、話の内容からして学部の同級生というわけではないようだった。けっきょく私には彼が誰だかわからなくて、適当に話を合わせてあはははは、なんて無責任に笑っているうちに彼は四谷で降りてしまった。というか本当は私も四谷に用事があったのだけど、いっしょに降りるのも何だか気まずかったので新宿まで行って折り返した。で、彼には携帯電話の番号を教えてもらったのだけど、困った。名前がわからないので電話帳に登録できない。こういう場合どうすればいい? とりあえず「不明(大学、お茶の水)」などという酷い名前で自分の携帯電話に登録したのだけど、それからというもの電話帳のハ行の欄を見るたびに、「フメイカッコダイガク、オチャノミズ」というその振り仮名を見るたびに私はほんの少しだけ罪悪感に苛まれる。電話がかかってきたらどうしようと思うと心臓の毛細血管に負担がかかって寿命が縮み電車にダイヴ。
 何だか話がだんだんつまらない方向に発展してしまっているのだけど、あほなので自分の文章を制御することすらもできずこのまま流され続けるよりしようがない。自身の記憶力の欠如を認識しているので大事な予定、約束についてはきちんと律儀にメモすることを欠かさない私だけれど、過去に起こった出来事については記録をとる習慣がないので、どんなに楽しかったことでも、どんなに苦しかったことでもその記憶はすぐさま減衰しおぼろげで曖昧となる。だから私が誰かにとってとても重要な想い出を憶えていなかったとしても、どうか怒らないでほしい。あるいは言い換えると、あなたの知り合いの誰かがあなたにとってとても重要な想い出を憶えていなかったとしても、どうか怒らないでほしい。って、何を言っているのかわからないかもしれないが、私自身も何を言っているのかわからない。わからないまま話を続けると、そういった大事な出来事を忘れがちな種類の人間にとって、もしくは少なくとも私にとって、重要なのは何か物事の全体像ではなく、通常は切り捨てられてしまいがちな細かい部分にあるのだ。なぜならば何かの全体像というのは、どんなに特別な物事のそれだったとしても概して非常に似通ったものであるからだ。私はそれに意味を見いだすことがあまりできないのだろうと思う。意味を見いだせないから、はっきり言ってしまえばどうでもいいと感じているからすぐに忘れてしまう。しかし細部は違う。あるいは無個性な全体像に貼りついたいくつかの細部の組み合せはそうではない。神は細部に宿るという言い方があるけれど、そういった意味で私はこの言葉に賛成する。やっぱり何を言っているのかよくわからない。ダイヴ。
 具体的な事例への言及を抜きにしてこれ以上一般論で話を進めるのは非常に困難なので、突然だけれどここで話を打ち切る。というか、五つ前の段落で映画のあと人間関係に話を展開してからどうも調子がおかしくなったようなので、そこから下をばっさりとカットするのがいいような気に私は今なっている。映画の話のあと本の話にでも繋げれば、穏当に、何事もなかったかのようにこの文章を終えることができそうだ。ということで段落を五つだけ戻って文章をやり直すことにする。青色の星で印をつけた部分だ。どうやってやり直すのか? 下の「続きを読む」というリンクをクリックすると青い星以降の部分の別ヴァージョンがあらわれる。そしてこちら側は特に結論めいた文章のない袋小路の尻切れトンボとしてこのまま終える。おしまい。
2006.11.06.Mon 00:00 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 私はこの話を友人から聞いた。その友人もまた別の知りあいから聞いたということで、そうした伝言ゲームが何度行なわれてこの話が私のところまで辿りついたのかは定かではない。
 友人はこの話を本当にあった出来事として私に話してくれたけれど、そのときは私もその友人もビールやウィスキーや何やらでぐでんぐでんになっていたので、酔っ払い特有のサーヴィス精神でもって友人が勝手に話に面白おかしく尾鰭を付けくわえた可能性は多分にあるし、それを聞いた私が自分の都合がいいように曲解した可能性も否定できない。そもそもそれ以前に何度か行なわれたであろう伝言ゲームの過程においてどのような歪曲が話になされたのかも知れたものではない。だから、この話が本当に事実であるか誰かの作り話であるかということは、私がこれを聞いた時点では既にもうどうでもいいことになってしまっているのかもしれない。だいたいにおいて本当にあった出来事を本当にあったまま話すことは不可能だ。かならず話者の主観が介入し、その言葉の選択によって事実は歪曲される。もしくはその歪曲をも含めた形で出来事は事実と呼ばれる。
 けれども、真偽のほどはともかくとして友人はそれを実際にあったこととして私に話してくれたのだから、私もこの話を事実として扱うことにする。何度かの伝言ゲームにおいて複数の話者の主観により修飾をほどこされた話を転載するにあたり、こういった姿勢にどれほどの価値があるのかわからないけれど、その点をないがしろにしてしまうと私自身にとってここでこの話を綴る意味がまったく失われてしまうのだ。
 そういったきわめて利己的な理由から、私はこの話を以下に文字起しするにあたって細部を勝手に補足するといった操作はしないことにする。私の行なった唯一の操作は友人の話の順番を入れ替えたことだけだ。ようするに私は時系列に出来事を並び替えた。事実をありのままに話すのが困難であるのと同じ理由で、会話の内容をそのまま文章にすることは不可能だからだ。特に酔っ払いが話すように書くのはとても難しい。会話の内容を自然な文章にするためには語られなかった部分を捏造し付けくわえなければならないけれども、それはいまの私の意図とは反する。与えられた話をただ単純に語ることを私は選択する。
 いくつか註釈 ―― 第一にこの話が全体として展開に欠け、結論に欠け、教訓に欠け、複雑さに欠け、ようするにあまり面白くないのは、何も酔っ払った私がそのディテイルを失ったせいばかりではない。私の憶えているかぎり最初からそういったものはこの話にはなかった。話に固有名詞が出てこないのも同様の理由である。最初からそんなものはなかった。だから、物語の神はその細部にこそ宿るという誰かの主張が正しいとすると、この話はまったくの骨抜きの乾涸びた抜け殻ということになる。第二に、この話が創作めいて見えるとしたら、それは私が出来事を起こった順番に並び替えたせいにすぎない。あるいは私の語り口調に原因がある。
 話の登場人物はふたり。名前の与えられていない男性がひとりと、同じく名無しの女性がひとりである。三人称で語られるこの話においてふたりの登場人物の感情がそのまま描写されることはあまりないけれど、それでも話の視点は全体的に女性の方に固定されている。このことからこの話の最初の話者は女性であったのだろうと私は推測する。
 彼は三十代で、彼女はそれよりもいくぶん若かった。ふたりはアパートの一室にいっしょに暮らしていた。そこは元元は彼女の借りている部屋だったが、いまではふたりで家賃を折半して支払っていた。彼は日中働き、彼女は昼から夜にかけての不定期な時間の職に就いていた。アパートの部屋は狭かったがそのぶん家賃は安く、ふたりの暮し向きはそれほど悪いものではなかった。そうした生活が一年ほど続いていた。
 彼女はここ一か月ほど、彼に別の女がいるという決定的な証拠を見つけようと頻繁に部屋のごみ箱をあさっていた。口紅のようにも見える赤い跡のついた食べかけのサンドウィッチを見つけたことが一度あったし、彼のいつも喫う銘柄ではない細い煙草の吸殻を見つけたこともあった。彼女はその吸殻をさりげなく台所のテーブルの灰皿に戻した。彼らは三日間口をきかなかった。ひとつのベッドの両端でたがいに背を向け寝る生活を三日間続けた。ようするに三日で彼らは少なくとも表面上は仲直りをした。
 煙草の吸殻を見つけてから何日かあと(と私は推測する)、彼女は台所のごみ箱の底から使い古しのストッキングを見つけた。ストッキングは口を固く二重に縛った白いビニール袋に入れられていた。その日の夜遅く彼女が仕事を終えアパートに戻ってきてみると、部屋が暗かった。ふたりで使っている彼の車が駐車場から消えていた。彼がどこに出かけて誰と何をしているかは彼女の知ったことではなかった。
 ここで話は短く途切れ、数日後のふたりの口論まで場面は飛ぶ。
 長い口論のあと、私にだって今ではもう別の男がいるの、と彼女は彼に言った。あなたほど頭はよくないけれどとても背の高い男だ、と彼女は言った。おまけにけっこうお金持ちだし、と。それを聞いて彼は傷ついたようだった。彼は背が低く、ずんぐりとした体型だった。金持ちでもなかった。
 ここで話はもう一度途切れる。口論からしばらく経ったあと、ふたりは車で郊外の店に買い物に出かけ、その帰り道、また口喧嘩が始まった。車中、彼は彼女に三つのことを訊いた。その男の職業は何か? その男と何回やったのか? なぜその男とやらなければならなかったのか?
 彼女は自分が嘘をついたことを打ち明けた。別の男なんていない、と彼女は言った。あなたを傷つけたくて作り話をしただけ、と。
 さらにしばらくあと、彼の休暇にふたりは旅行に出かけた。それは彼女が提案したものだったが、彼女にも特に行きたいと思える場所はなかった。分厚い旅行案内の冊子を持って、行き先を決めずに車で出かけた。彼が運転をし、彼女は助手席に坐ったが、本当は彼女のほうが運転は巧かった。郊外へ向う幹線道路に出てすぐ、前を走るトラックが荷台から小さなプラスティックの鉢植えを落とした。彼がハンドルを切って避ける前に鉢植えはアスファルトで跳ね車線から飛びだしていった。高速道路に乗り、特に寄り道もせずしばらく走った。
 夕方のサーヴィスエリアで、そろそろどこか泊るところを決めて予約をしたほうがいいんじゃないの、と彼女は彼に言った。今日どこまで行くことになるかわからないという理由で彼はその提案を突っぱねた。やがて本格的に暗くなり、それなりの大きさの街につながるインターチェンジから高速道路を降りたが、最初に見つけた適当そうな外観のホテルには部屋の空きがなかった。彼女は自分が正しかったという理由で彼が腹を立てているのではないかと思い、彼にそう訊ねた。ホテルなんてまだたくさんあるよ、と彼は言った。
 しばらく街道を走り、いくつかホテルや旅館の看板を見つけたが、ふたりは無言のまま通り過ぎた。彼女は泊るところなんかもうどこでもいいと思っていたし、彼も同様のようだったが、ふたりとも口に出してそう言うことはなかった。一日中車に乗りっぱなしだったので身体がこわばり痛かった。やがて道を照らす建物や看板の灯りもなくなり街は途切れ、ふたりは引き返していちばん最初のビジネスホテルのようなところに泊った。
 翌朝、彼女は海まで行ってみようと彼に持ちかけた。海岸線に辿り着くには山間を突っ切る高速道路から大きく外れ数時間を走らなければならなかったが、彼に異存はなかった。前日とは打って変わってその日の彼女はこの旅行を楽しんでいるふりをするようにできるだけ努めたが、そんな彼女を見て彼がどう思ったのかはわからなかった。制限を大きく超過する速度で車は山道を走った。私を道ずれにして死ぬつもり、と彼女は冗談めかして言った。
 ハンドルを握る彼の表情がつらそうだった。彼女が彼の左腕に触れると、彼はたじろいだ。彼の脆い部分が垣間見えたような気がして何だかいやだった。ひょっとしてどこか具合でも悪いの、と彼女は尋ねた。なんでもない、と彼は言った。ただちょっと疲れただけだよ、と。ふと彼女は、自分を必要としていないかもしれない女と車で旅行をするというのはどんな気持ちなんだろうか、と考えた。彼女はシートベルトをしたまま上半身をねじり、彼にキスをしようとした。彼はそれを拒もうとはしなかったが、身体を固くしてハンドルを握り、ただ前を見つめているだけだった。
 車を停めたのは砂浜の海岸線に沿ってゆるやかに湾曲する道路だった。遠くのほうに岩場とテトラポッドがいくつかある以外には特に何も見当たらなかった。少し休憩して身体を動かさない、と彼女は言った。彼は運転席に坐ったまま、彼女が道路わきで身体を伸ばすのを見つめていたが、やがて車を降りてきて、彼女の隣で膝の屈伸運動を何度かした。彼女はテトラポッドを指差して笑い、言った。ハンディは三十秒くらい?
 彼はあくびをし、車にもたれかかった。じゃあ二十秒でどう、と彼女は言ったが、彼が承知したかどうか彼女にはわからなかった。彼は何かを待っているようだった。ただ躊躇しているだけのようにも見えた。彼女が車道から砂浜へと降りゆっくりと歩きだし、それから振り返って見てみると、彼は車にもたれたままだった。かまわず彼女は走り始め徐徐に速度を上げていった。砂浜は柔らかく走りづらかった。隙間から靴に砂が少しずつ入ってくるのがわかった。彼の足音がしないかと耳を澄ましていたが、ざくざくと砂を踏みしめる自分の靴の音しか聞こえなかった。怖くて背後を確かめる気にはとてもなれなかった。本当は彼を失いたくなかったのに、と思った。彼に別の女がいるのかどうか実際のところわかっていなかった。テトラポッドまでの残りの何十メートルかは息を止めて走ることにした。と、そのとき彼の音がした。全力疾走の足音と、間違えようのない息づかいが聞こえた。すぐに彼は彼女を追い越し、けっきょく十メートル以上の差をつけてテトラポッドに達した。
 彼女はテトラポッドに坐る彼の腰に勢いをつけてぶつかってゆき、追ってきてないと思ったから途中でスピードを緩めたのに、と言った。負けるといつも負け惜しみだね、と彼は言った。そっちだって、と彼女は言った。
2006.10.31.Tue 00:00 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)
 とある事情から英語版のヤフーメッセンジャーをコンピュータに入れて、せっかくIDも取得したのだからとちょっとした好奇心から Yahoo.com のチャットルームを覗いてみたのがそもそもの間違いのはじまりなのであって、何だかよくわからないうちにそこに二時間もいるはめになってしまった。はあ、なんて思わず溜息が自然に出てしまうほど私は疲れはててしまった。はあ。あまりにも疲れたので長い文章を書く気にはとてもなれない。よって以下では簡潔に細切れの断章形式で事の次第をお伝えすることにする。って、まあ別にお伝えなんてしなくてもいいのかもしれないけれど。はあ。





 私は Yahoo.com のインスタントメッセンジャーとそのIDを取得した。なぜならば、必要だったからである。


 私は Regional: Japan というカテゴリーのチャットルームに入った。なぜならば、別に興味の持てるカテゴリーも見つからなかったからである。


 ではなぜチャットをしようなんて私は思ったのか? 正直に言うと、よくわからない。ただ何となくとしか言い様がない。そういうことってよくある。


 チャットルームに入ると、一分も経たないうちにプライヴェートメッセージのウィンドウが五つほど花開いた。やけに派手なやつもあって、最初これらはてっきりスパムだと思ったのだが、どうやら違うらしい。
 一対一でのチャットのお誘いである。


 ちなみにお誘いのメッセージたちはこんな感じ ―― 「 hi 」 「 ur a/s/l plz 」 「 hi, how r u? 」 「 r u busy? 」 「 konichwa 」などなど


 u が you 、 r が are 、 konichwa がこんにちはであることなどは容易に想像がついたが、a/s/l というのが何のことやらさっぱりわからない。調べてみると、「年齢・性別・住所」の略語であるらしいことが判明した。はあ。



 話は変わるが、今のインスタントメッセンジャーはなかなか高機能だ。音声でのチャットは充分実用レベルにあるし、カメラさえあればリアルタイムで映像も送れる。ファイル交換だって簡単だ。


 ところで、「 ur a/s/l plz 」のメッセージウィンドウではアニメーションがうごめき、そのアニメーションがこちらに派手な音つきのキスマークを投げかけている。彼(彼女)のIDはホットマン何とか。
 勘弁してくれないか?


 で、ためしにひとつのメッセージに返事をしてみたら、即座に性別を訊かれた。答えたところ、お前はややこしい奴だなとか何とか、友好的とは言いがたい口調でののしられてしまった。そして彼(彼女)はあっさりと去っていった。
 なぜ彼(彼女)はそんな態度をとったのか?


 彼(彼女)は私のIDネームを見て、日本人の女性だと勘違いしたのだ。彼(彼女)は言った。「紛らわしいIDつけてんじゃねーよ!」
 そんな国際交流。

 
 そうこうしているうちにもメッセージウィンドウは次次と開き続ける。そのうちのひとつにはこうあった ―― 「カリフォルニアに住むパキスタン人。二十七歳。コンピュータ・エンジニアリングを勉強しています」
 彼は大文字と、コンマと、ピリオドの使い方を心得ていた。六つ以上の単語を使って文章を組み立てることだってできた。


 何となく話が通じそうだと思ったので返事をしてみた。ちゃんと私の a/s/l を添えて。


 すると彼はこう言った。「俺、本当は英会話学校に通ってるだけなんだよね」
 いい奴じゃないか。


 ところで、彼のメッセージにはこんな謎の記号が添えられていた ―― lol


 ロルって何だ? 何かの種類の顔文字か?


 よく見てみると、チャットルームのほうでもこの謎の記号は頻繁に使われている。なかには、やたらと続けて lolololol とつぶやいているひともいる。調べてみたら ―― lol は Laughing Out Loud の略語、つまり(笑)と同じような意味らしい。
 ロルロル。


 で、そんなこんなでだんだんとわかってきたのだが、というかチャットルームに入る前から察しているべきだったのだけど、チャットでの発言内容とその発言者のIDを見るかぎり、ここのメンバー構成はだいたい以下のとおりのようだ。


1.日本の女性とお話をしたい外国の男性(これがメンバーの大部分)
2.外国の男性とお話をしたい日本の女性(人数はとても少ない)
3.ただ単純に日本が好き(ほんのちょっと)
4.私(ひとり)


 生きていくって難しい。


 1番と2番の方がたとコミュニケーションをとるのはとても難しそうだったので、3番のひとと話をしてみた。


 どこの国か忘れてしまったけれど東南アジアに住む十八歳の男性。彼はこんなことを話してくれた――


「やあ」 「女の子?(違う)」 「何だよ(ごめん)」 「ところで俺は日本のアニメが大好きだ」 「ロル」 「特に○○と××と△△!!」 「さいきん観た□□はクールだった。お前は観たか?(知らない)」 「なぜ観ない?(さあ?)」 「俺は☆☆の mp3 を持ってる。**の動画も」 「欲しいか?(別に)」 「何かいいの持ってない?(すまん)」 「……お前ここで何やってんの?(私も知らない)」 「え? なぜ日本のアニメが好きかだって? それは最高にクールだからだ」 「ていうか日本自体がクールだ」 「だろ?」 「俺はいま日本語を勉強している」 「ハジメマシテ」 「アナタ ニホンジン ナンデスカ」 「で、誰か女の子のID知らない?(知らない)」 「ほんとに?(ほんとに)」 「ところで日本の女の子ってどう?」 「クール? キュート?」 「どんな感じ?」 「つーか実際のとこどう?」 「ロルロル」 「教えてくれー」
註:過激な表現は穏健なものに変えてあります


 そのあと、どういう経緯だったかはもう忘れてしまったけれど、彼とは浜崎あゆみと『名探偵コナン』の話をした。そんな国際交流。
 私はいったい何をやっているのだろうか?


 いつのまにか二時間が経っていた。私はとても疲れた。こんなに疲れたことなんてあまりなかった。私はチャットルームをあとにした。モニターを見続けたせいで眼が痛かった。


 そして私はぐっすりと眠った。夢は見なかった。夢なんて見るはずがなかった。


 これは、そんな国際交流のささいな記録である。

 
 おしまい。






 
 以下は余談。


 チャットルームではとにかくみんなやたらと張り切っていた。まあ、わからなくはない。でもキスマークを送る前には相手の性別を確認するべきだと私は強く主張したい。


 何だかやけに東南アジアのひとが多かったけれど、それが時間帯によるものなのか、それともいつもそうなのかはわからない。


 インドのひとは英語がうまい。カレーについてはよく知らないけれど、ささいな嘘をつくひとはけっこういるようだ。
 インド人嘘つく。


 褒め言葉は常に「クール」。軽い相槌だって「クール」。これさえ知っていればきっとチャットでやっていける。ひとつ註釈 ―― クールは kool とか、 kewl とか、 kl とかと綴ること。
 はあ。


 IDはとても重要だ。気をつけろ。


 ロルロル


 あと、いつのまにか私のメッセンジャーのフレンドリストにひとり名前が載っているんだけど、どこの誰なのかさっぱりわからないし、どんな話をしたのかも憶えていない。こういうのは勝手に消しても失礼には当たらないのだろうか?


 で、結論として、私はとても疲れた。

 
 はあ。


 何だかこんな感じ。


 こちらからは以上だ。君の健闘を祈る。
 

 おしまい。


 ロルロル。


 はあ。
2006.04.20.Thu 00:00 | 未分類 | trackback(0) | comment(0)






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